Man in the Society

身近なことに目を向けるブログ

強者の自己責任論に抜け落ちる「環境」という視点

 

「自己責任だけど」

 

最近、この言葉を目にする機会が多くなった気がする。この言葉は関西弁の「知らんけど」のように、あらゆる話の語尾に付けられる便利な言葉だ。

両方意味としては「私は保証できないから、あなたが判断してね」という所だが、「知らんけど」と違ってフォーマルな、真剣な話題にも「自己責任だけど」は使われる。

むしろ社会的地位の高い人がこぞって使う傾向にあるのではないだろうか。

 

今や何でもかんでも「自己責任」と言われがちだが、「自己責任」はもっと細かく見れば「積極的自己責任」と「消極的自己責任」の二つに分けられると僕は思っている。

 

「積極的自己責任」とは、<さらなる利益を得ようとしてリスキーな選択を自らする場合>が当てはまる。

たとえば株取引やFX、ギャンブル、酒や薬物。

「金銭」や「快楽」という自分の利益のためにリスキーな選択をわざわざしたと一般的には見なされ、これらで金を失ったり、健康を損なったりした場合「自己責任だろ」と言われるのは納得がいく。

それは「やらないという選択肢」も用意されていたはずだからだ。「やらない」を選択し現状を維持していれば、不利益を被ることなかった。

「ご利用は自己責任でお願いします」というところだ。

 

もうひとつの「消極的自己責任」とは<しないことで不利益を被る場合>が当てはまる。

「消極的自己責任」は勉強や仕事、健康などの文脈でよく語られる。

いい大学に入れないのは勉強を"しなかった"から。収入が低いのは努力が”足りない”から。病気になるのは自己管理が”できていない”から。

これらは確かに正しい。偏差値の高い大学に入ろうと思えば沢山勉強をする必要がある。収入を上げるには頑張っていい仕事を見つけなければならない。健康的な生活を心掛ければ避けられる病気も多いだろう。

それらを”してこなかった”上で良い結果を得られずに不満を言うのは、「努力」や「進歩」といった社会で広く共有されている価値観の否定となってしまう。

 

 

だが最近僕が気になるのは、この「消極的自己責任」の範囲がどんどん拡大している現象だ。

たとえば近年、保育士の給料が低い問題が表面化してきたが、それに対して「収入が低いのは自己責任だ」という論調で語る人も多い。

確かに保育士の仕事を選んだのは彼/彼女ら自身である。保育士の人たちは収入の高い他の仕事を"選ばなかった"。

 

生活の苦しさを「自己責任だ」と問題を片付けるのは簡単だが、実際には保育士の給与が低いという問題は根本的には全く解決していない。

保育士は社会的に必要な職業であり、誰かがしなくてはならない。誰かが低い給与で働いていることには変わりないのだ。

保育士という資格が必要な専門職で、社会的ニーズが高いにも関わらず労働環境が悪いというのは、構造的なひずみがあるとしか思えない。

 

「自己責任」という言葉はあらゆる問題を「個人の問題」として押し付けてしまう力強さを持つ。

個人の力がほとんど及ばない社会全体や組織全体の構造的な問題も、単なる「一事象」の失敗として片づけてしまうことが出来てしまう。

 

さらに、「自己責任」と果敢に叫ぶのは決まって社会的地位の高い「強者」だ。

強者には、自分は努力して成功した、自分の今は勝ち取ったものだという高い自負がある。これは非常に正しい。成功者と呼ばれるひとは大抵並々ならぬ努力をしているものだ。

成功者は「私はこうして成功した!」と主張する。「成功は自ら勝ち取れるものだ!」と。

 

だが、強者は「自分が努力して成功したんだから、他人も必ず出来るはず」という思考に陥りがちだ。この思考には「環境」という視点が抜け落ちている。

「環境」とは自分一人の努力では変えられない要素・変えることが難しい部分を言い換えたものと考えて欲しい。「構造的な問題」と言い換えることもできる。具体的には生育環境・教育・親の経済的事情・社会システムなどだ。

 

「環境」の力は強い。「消極的自己責任」の範囲で<しない>とある環境で考えられることが、違う環境に居れば<できない>ということも出てくる。

極端な例だが、同じ「学力が低い」でも、日本の裕福な家庭に生まれた子供が勉強を<しない>のと、アフリカの貧困家庭で生まれた子供が勉強<できない>のとは雲泥の差であろう。

強者になれるかは個人の努力のほかに「環境」によっても大きく左右されてしまうのだ。

 

保育士は普通のサラリーマンと同じくらい働いても給与が断然低くなる。これは「環境」のせいである。保育士個人の努力が足りないということではない。

「環境を選べ」という意見も出るだろうが、保育士という環境を選ぶことは誤りなのだろうか。保育士のように社会的ニーズの高い職が不遇な環境にあることがそもそもおかしいと僕は感じる。

 

保育士が給与の低さを訴えたとき、「自己責任論」を唱えるのは的外れなことである。保育士の給与という環境・構造に歪みが出ているのに、それを個人の問題に収めようとするのは問題の原因を取り違えている。

 

「環境」がいびつで苦しむのは選んだひとの「自己責任」なのだろうか。他の環境を”選ばなかった”ひとが悪いのだろうか。これも「消極的自己責任」の範疇なのか。

僕はこれにNOと言いたい。

環境がおかしいのだから、環境の方を変えるべきだ。自己責任どうこう言う範囲をオーバーしていると思う。環境に文句を言って何が悪い。

 

 ******************************

 

「自己責任」という概念自体は否定されるべきではない。人生の選択肢が無限大に広がった現在、自分の人生は自分で良くしていく・自分の道は自分で選ぶ という責任感はあって然るべきだと思う。

 

どこまでが個人の問題で、どこからが構造的な問題かの判断は難しい部分もある。 

だが、何でもかんでも「自己責任」と言う人を僕は信用ならない。

「自己責任論」を唱える人は一度自問自答してほしい。

 

「自分の成功は、全くもって自分のおかげなのだろうか?」

 

「環境」にいびつさがある時、変えることができるのは政治であり、社会運動であり、それこそ「強者」であると思う。少なくとも「環境」に不満を持っている人が声を上げたとき、それに協力することくらいはできるだろう。

自己責任論が拡大する中、力を持った強者こそ「環境」という視点を持ってみて欲しい。

 

 

最後に「強者の自己責任論」の典型を貼っておきます。

www.youtube.com